パンは発酵によって膨らみ、旨味がでます。発酵の源は生地の中で生きている酵母と乳酸菌です。酵母は小麦粉や砂糖に含まれる糖を分解して、炭酸ガスとアルコールを生成。炭酸ガスによってパンは膨らみ、アルコールはパンに風味をもたらします。
乳酸菌は乳酸発酵し、他の菌の繁殖を防ぎながら独特の酸味を生み出します。また香味・旨味成分でもあるアミノ酸も生成するため、より味の深い、香りの良いパンになります。
古来より人間は、この酵母と乳酸菌が混ざったパンの元「発酵種」をうまく使いながらパンを作ってきたと考えられています。
1850年代に「イースト」が発明され、自然界の酵母を純粋培養する方法が確立。乳酸菌がほとんど介在しないパン作りができるようになり、酸味のない、ふくらみの良いパンが生まれました。バゲットやクロワッサンも、このイーストが発明された後に生まれたパンになります。
現在でも多くの国々でイーストを使ったパン作りが主流ですが、発酵種を使った昔のパン作りに戻ろうという回帰運動が各地で起こり、現在はその流れの中にあると言えます。
前置きが長くなりましたが、「Japanese Breads」では、この発酵種に着目してパン作りの工程を覗くようにしています。ヨーロッパでは、イーストがメインストリームでありつつ、発酵種としては主に小麦粉で繋いだ「ルヴァン(サワー種)」とライ麦を用いた「ライサワー種」の二つが使われています。一方日本では実に多様な発酵種が存在しています。パンが主食でない国、日本。まさにそれが故にパンの種類の多様化、パンの製造方法の多様化が起こり、パンを主食とする国々では見られない独自の進化を遂げていると感じています。私自身、取材を始めるまでこんなにも日本に多様な発酵種があるとは想像しておらず、毎回驚きの連続です。
以下に、日本で用いられている代表的な発酵種をご紹介します。
(日本では「天然酵母」という呼び方が一般的ですが、ここでは「発酵種」で統一しています。より詳しい分類はページ末に記載しています)
日本で用いられる発酵種
◆サワー種
酵母菌と乳酸菌を培養した伝統的な発酵種です。パン用酵母菌が単一の菌に属しているのに対し、乳酸菌は糖を発酵させその生成物の50%以上の乳酸を作り出す沢山の菌種の総称です。主に乳酸を生成するタイプの菌と、乳酸と共に酢酸を生成するタイプの菌があり、原料、種継ぎ方法、生育環境(温度や給水)等の変化によって繁殖する菌も異なってきます。
◆レーズン種
レーズン種といっても多様な作り方・使用方法があります。
レーズンに水を加え、発酵させて作ったエキス種を直接生地に加える方法もあれば、そのエキス種に小麦粉を加えかけ継ぎ、完成した種は使い切り、必要な分の種はエキス種から毎日新たに作る場合もあります。その場合、酸味を抑え、より発酵力が強い種になります。
またサワー種の元種を作る際に小麦粉からではなく、レーズンの酵母を用いる方法もあります。このサワー種をレーズン種と呼ぶ職人もいますが、菌体成分としては一年経つと小麦粉から起こした通常のサワー種とほぼ同じになると言われています。
◆酒種

米と米麹と水から培養した発酵種です。酒作りの技術をパン作りに生かしたもので、明治時代に日本で生まれました。安定性に欠けるため、現在ではほとんど使われず、酒種の使用を謳っているパンでも、殆どがイーストと併用されたものであったり、酒種風味料を加えたものであったり、その伝統も廃れようとしています。
酒種の特徴として、焼きあがったパンに独特のしっとりした食感と、ほんのり甘い酒種の香りがすることなどがあります。糖度の高い生地でも発酵するため、菓子パンに適しています。酒種のパンとしてはあんぱんが有名です。
◆ビール酵母種
ビール製造中に出る副産物を、発酵種として用いるのは歴史的に古く、さまざまな見地から面白いです。ここでは仁瓶利夫氏の「Bon Painへの道」から、その内容を一部抜粋して紹介します。
ルビュール(フランス語でイーストの意:筆者注)も時代と共に三つの流れがあることを説明したい。
仁瓶利夫 2014 「Bon Painへの道」 P18
始めはビール製造時の上部に集まる酵母をルヴァンの補助に使ったものが「ルヴュール・ド・ビエール」と呼ばれた。のちに18世紀末に穀物からアルコールを精製するときの酵母から「ルヴュール・ド・グラン」が作られ、戦争で穀物が逼迫してきてからは、糖蜜で培養する現代の「ルヴュール・ド・メラス」になった。
フランスで15世紀に入ってブラッスリー(ビール醸造所のこと)が発展してくると、その近辺のブーランジェリは製パンにルヴュール・ド・ビエールを使い出すようになった。始めは冬の季節にルヴァンの発酵を助けるのに好都合であったのだが、通年使うようになる。1530年頃にはパリのパン・モレ(少し牛乳と塩入りの生地)などのプティ・パンにはルヴュール・ド・ビエールをたくさん使った例も出てくる。
ただ、このルヴュール・ド・ビエールの使用に反対する人も多かったようで、1667年にはパン屋相手に訴訟が起こされた。審議は紛糾し、1670年、ブラッスリーの近くのブーランジェリに限ってという条件付きで使用が認められた。
この時代は、消費者が酸味がきついパンを好まなくなり、ルヴュール・ド・ビエールを少量添加することは酸味を和らげる意味でも、より一般化していった。ブーランジェは冬の寒い時期でもルヴァンを発酵させるのが楽にはなったが、ルヴァンの管理は現代のように冷蔵庫がない時代であれば、常に種継ぎをしていなければならず、片時も目を離せないことに変わりはなかった。
19世紀に入ると近隣の国々はルヴァンに固執しなくなり、ウィーンのパン職人はホップの煎汁と水と粉、または糊化させたじゃがいもを使ってパン種を起こしたりしたという。これは日本のホップ種のルーツではないだろうか。
◆ホップ種
ホップ種は現在のイーストが普及する昭和初期以前まで、酒種と並びパンの発酵に用いられてきました。横浜を中心に外国人居留地にあったベーカリーの多くが、このホップ種を用いてパンを作っていたと言われています。当時は、日数がかかるため外国から生イーストを輸入できず、また日本国内でも製造されていなかったため、その代わりになるものが求められていました。
ホップ種は、ホップの煮汁にじゃがいも、小麦粉などを加えて作られます。ホップに含まれる抗菌作用成分が発酵種中の乳酸菌の増殖を抑え、より酸味のないパンが焼けるのが特徴です。イーストの普及ともに急速に姿を消しました。
◆楽健寺酵母
東光寺住職・楽健法創始者の山内宥厳氏が普及させた日本オリジナルの発酵種。りんご、人参、山芋、玄米、小麦粉、砂糖、塩に少量のイーストを加え、元種を作ります。減った分の種はまた同じ材料を加えながらかけ継いでいきます。サワー種比べて酸味が弱く食べやすいパンが焼けるのが特徴です。
株式会社第一酵母の創設者・多田政一博士が実践していた食事療法のグループで作られていたパンをヒントに、山内宥厳氏が自らの喘息を治すために取り入れはじめたのが楽健寺酵母パンの始まりです。その後山内氏は、額縁職人からパン職人へと転向し、1974年4月に「楽健寺酵母パン工房」を大阪に開業し、2020年11月30日まで半世紀の間パンを作り続けました。
山内氏は本の出版やパン作りの講習会を通して普及に努め、現在多くの日本のパン屋が楽健寺酵母を用いたパン作りを取り入れています。
イーストと発酵種について
「酵母」は穀物や果実の表面等に生息し、ワインやビール等酒作りから味噌、醤油、パン作りに至るまで、人間は昔からその働きを利用して、食生活をより豊かにしてきました。
酵母は自然界に広く生存する生き物であり、人工的に作り出されたたものではありません。パン作りにおける発酵種もイーストもその点では変わりはなく、違いを挙げれば「発酵種」が酵母以外の多くの細菌類と共存しているのに対し、「イースト」は工業的に単一のパン用酵母菌種を純粋培養したものといえます。ですから「イースト」は酵母の菌体数が多く、発酵力、膨張力にすぐれています。「発酵種」は酵母以外の細菌類が作り出す有機酸(乳酸・酢酸・クエン酸・酪酸等)や、芳香性のアルコール類が、イーストには無い独特の風味や香りを生み出し、パンに深い味わいを与えています。
現在では、メーカーから市販される「発酵種」もあり、さまざまな種類のものが市場に出回っています。また日本では「発酵種」のことを「酵母」「天然酵母」と呼ぶ習わしも定着していますので、整理のために三つの区別を記載します。
- 自家培養発酵種
パン工房や自宅で培養させたもの(ルヴァン、レーズン種など) - 工場培養簡易発酵種
自家培養発酵種の量産版で、工場で安定した種起こしを行い、ドライやセミドライの状態で販売されるもの(ホシノ酵母、サフルヴァンなど) - 工場純粋培養酵母
酵母を選別して単一菌株を純粋培養したもの(ドライイースト、生イーストなど)
